2007年10月に書いた物です。長年のブログ整理中に見つけました。
俵さんの選んだ短歌の中から、さらに、心に残った短歌を、少しだけ考察してみました。
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「きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり」 永井和宏
出逢いというものは本当に不思議なもので、ほんの少しタイミングがずれていたら、一生、顔も知らずにいたかもしれない人もいる。
「この人に逢えて本当によかった。」と思う反面、「この人と出逢わなければこんなに苦しむこともなかった。」と考えることもある。
作者は、そんな出逢いをして、「どうしてしまったんだろう」と自分に問いかけ、ふと、海を見に行った。
海をみて、「きみに出逢う」前の自分を思い出してみはするけれど、元の自分には戻れない自分も十分わかってるのだろう。
たぶん、きみに対する思いの深さを再確認しながら、帰りのバスに揺られるだろうということも。
この歌からはなにかをせずにはいられなかったもどかしさ、愛することに少々疲れた若いこころがよく現われている。
若い頃の自分と重ねて、共感を覚えた歌である。
一方、美貌の歌人 柳原白蓮
叔母は大正天皇の母という華族の名門に生まれ、九州の炭鉱王と結婚、、豪華な暮しぶりで「筑紫の女王」とうたわれたが、
社会運動家・宮崎龍介との恋愛で出奔し、添い遂げたという情熱の人。
「幾億の命の末に生まれたる二つの命そと並びけり」
地球に生命が誕生して39億年。
命が連綿と続き、やっと人として形をなす。
そんな中での出逢いは奇跡に等しい。
白蓮にも「海を見に行きたい」日はあっただろうが、ここでこうしてあなたに出逢えた、そのことを純粋に喜びたいという肯定的な考え方を天晴れに思う。
「出逢い」によって苦しむこともあったりするけれど、それでも、「出逢い」たいと思うのは、奇跡を見たいからなのかもしれない。
「奇跡の出逢い」の先には、なにがあるのだろう。。。
白蓮なら「それは、自分が作るもの」と言うのだろうか。
幾億の命の末にそと並んだふたつの命か。。
今月は神無月ではあるけど、これは神の領域なのかも。笑。