小春の庭仕事

観た映画、読んだ本、聴いた音楽、旅した、食べた、買った、そして、思った記録です。最近は庭仕事がメインです。

 言葉を超えたなにか

今年は、よく日記をつけた。

2001年3月からはじめたWEB日記だが、こんなに多くを語ったのは久々かもしれない。

1日2000文字ほど。よくもまぁ、語りに語っていると我ながら感心する。

ただ、こんなに書いても、自分の生活を全て表現できているかと言えば、勿論そうではない。

敢えて表現しない自分の姿もある。

また文字として、言葉として表現している自分について、すべて思い通りに表現できているかといえばそうでもない。

特に感覚世界の部分は、「言葉にできない」「言葉にならない」としかいえないことも多い。

哲学者のスーザン・ランガーという人は、

人間の直接体験の世界は、感覚と言う大海である。それは果てしなくそして深い。そしてそれは、個々の人間の内部にあって、第三者には伺い知ることのできない世界だ。その世界の一部をわれわれ人間は言語にして外に向かって「表現」する。しかし、そんな風に表現できる部分と言うのは、感覚の大海にくらべれば小さな島のようなものでしかない。われわれが言語化できる部分、他人につたえることのできる部分は、われわれが実際にこころのなかで感じていることのすべてにくらべれば、実にわずかなものだ。」加藤秀俊「自己表現」より

と言っている。

「感じているけど、言葉にならない。思っているけど、文章にできない。」ことはたくさんあって、もどかしい思いをすることもある。

こどもに作文をさせる時に「感じたことをそのまま文章にしたらいいのよ。」と教えたりするけれど、それは言うほど簡単なことではない。

ある方が、川端龍子が昭和9年に描いたという「愛染」をこう表現されていました。

    

    「愛染とは仏教の言葉で男女の愛欲を意味するとのこと。
     鴛鴦の互いの視線や、配置の絶妙なバランス、
     そして、水面の群青を覆い尽くす真っ赤な紅葉が
     情念の炎となって見る者の心を焼きこがします。」

そこには写真も添えられて、その絵の持つ魅力はその方の豊かな表現力のおかげで十分に想像できるのだが、私はどうしてもその絵を、実物を見たくなった。

言外にあるなにか、情念の炎をかきたてるなにかを、体感したいと思った。

音楽にしても、同じだ。

たくさんの解説を聞くより、曲を一緒に黙って聴くだけで共感できるなにかがある。

こんな時は、却って言葉は邪魔だったりする。

日記でたくさんのことを語り、メールで毎日のように気持ちを語り、それでも伝えられる自分は全てではない。

それどころか、伝えられない部分のほうが多いのに、文字だけで作り上げられた粗い「輪郭」のようなものが勝手に一人歩きする。

しかし、隣に座り、息遣いを聴き、胸に手を当て鼓動を聞くだけで、その人の感覚世界に触れられることもある。

「言葉を超えたなにか」を感じるのはそんな時だ。

感覚世界の出来事は「言葉にならない」というより「言葉にしたくない」というほうが私にはしっくりくる。

言葉を持たない鶴が、舞で表現するように、わたしも言葉以外の何かで伝えてみたいと思う。

そこに広がる「感覚の大海」で感応しあうのは、どういう感覚なのか。

とうてい言葉にできない。笑。。。