小春の庭仕事

観た映画、読んだ本、聴いた音楽、旅した、食べた、買った、そして、思った記録です。最近は庭仕事がメインです。

 「もの食う人びと」by 辺見庸

もの食う人びと (角川文庫)

最近は本を読む時間も取れないので、専ら、人さまが読んだ本の感想を伺って読んだ気になっているのだが。

つい先日、辺見庸氏の新刊「たんば色の覚書〜私たちの日常」を紹介されている日記があって、その文章に惹きこまれた。

私は10年以上前に、辺見さんの「もの食う人びと」を読んで度肝を抜かれた。

「人びとはいま、どこで、なにを、どんな顔をして食っているのか。あるいは、どれほど食えないのか。ひもじさをどうしのぎ、耐えているのだろうか。日々ものを食べるという当たり前を、果たして人はどう意識しているのか、いないのか。食べる営みをめぐり、世界にどんな変化が兆しているのか。うちつづく地域紛争は、食べるという行為をどう押しつぶしているか・・・・・・それらに触れるために、私はこれから長旅に出ようと思う。」

辺見さんはこうして、旅程もなく世界を駆け巡った。

私は美味しいものが好きだ。

「こんなところへいって、こんな美味しいものを食べました。」と自慢げに語ることもある。
そういう自分を否定するわけでない。私はそういう環境に身をおいているのだから。

しかし、そういう自分を陳腐だと思う気持ちも忘れてはいない。
日々、グルメ特集ばかりやっている日本のマスコミにも飽き飽きしてる。
ブログにUPされる日々のご馳走にもさほど感動しなくなってきた。

人間は同じ場所に住んで似たようなものを食べているうちに、だんだん均質化されていくんではないかと思うようになった。

均質化された人びとは、一様に、着るもの、住む家、乗る車、聴く音楽、あらゆる趣味についてセンスが良いことが幸福への近道なのだという幻想を持っているのではないか。

そういう幻想の中で一生を終えるのは、なんだかとてもつまらない気がする。

この本は、いっぱし「食」に拘っていると自負していた自分を恥ずかしいと思うきっかけになった本である。

辺見さんは、現在はガンに冒され、痩せてぎらぎらした目で世界を見ている。

その飢えた狼のような生き様に私は痛々しさと憧れを感じてしまう。

京都のいまさらさんは

「しかし、どんなに病気の体を引きずってさえ、これからも確定死刑囚への面会をやめられることはないでしょうし、ましてや死刑制度廃止を訴える口を閉ざすこ ともないのでしょう。なぜなら、無価値とされるものの、反価値とされるものの中に存在の原点があるのではないかと、辺見さんはかすかな希望の光を見ている からです。」

と語っておられる。

辺見さんの政治的なスタンスはここで言及する気持ちもないが、

「無価値とされるもの、反価値とされるものの中にある存在の原点」

これは、常に私の中で鳴っている警鐘のようなものだ。

「庸」という文字は「ことさら新奇な企みをしない、ありふれたこと」を表すということだが、「凡庸」とはかけ離れたところにいる人だと気づき、またひとつ心が騒ぐ私なのだった。笑。