11月に偶然に私の身近で「石榴」の話をされる方が二人いた。
紹介された短歌の石榴の印象は、「ずっと前から感じていたけれども、言葉にするのをためらっていた」ことだっただけに、鮮烈であり、スリリングでもあった。
その少し後に、「石榴の実の割れた瞬間の美しさ、そして見る見るうちに色が褪せていく無残さは、熱望していたもの(女)が手中に収まって輝きを失った場合のそれと似ている。」と傲慢に語る人がいた。笑
その時に、脳裏に、扇情的な赤と黒味を帯びて毒々しくなっていく赤が交錯した。
それ以後、「石榴」は私の中になにかしら不吉だけど、魅力的な植物として留まった。
「紅一点」という言葉は、石榴が初夏に鮮やかな赤の花を咲かせ、他の樹木の中でひときわ目立つことから、王安石が『万緑叢中紅一点』といったことから始まった言葉だそうだ。
日本では「鬼子母神」神話に出てくる。
「元は鬼神・般闍迦の妻で、500人(一説には千人または1万人)の子の母でありながら、常に他人の子を捕えて食べてしまうため、釈迦は彼女が最も愛していた末子を隠して子を失う母親の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させた。以後、仏法の護法神となり、子供と安産の守り神となった。」
鬼子母神はとても美しい天女として描かれ、懐に赤ん坊を抱き、片手に「石榴」の実を持っている。
「石榴」の実は中にたくさんの種を持っていて、それぞれがまた「ざくろ」に成長して、子孫がたくさん増えるという。
そして、その実は固い外皮に覆われて大事に守られている事から、子供を守るという思いがこめられているという。
「ざくろ」は「吉祥花(きっしょうか)」と呼ばれるらしい。
この説話にはもうひとつ別の言い伝えがあって、、、、釈迦は、鬼子母神に「こどもを食うかわりに石榴をたべよ」と言ったとも。。
ギリシャ神話の中にも「石榴」はでてくる。
冥界の王、ハーデスは農業と大地の女神デメテルと全能の神ゼウスの間に出来た美貌の娘ペルセフォネを我が物にしようと誘拐した。
デメテルは娘が死んだと思い、悲しみのあまり地上は実りから決別した。
だが、娘は死んだのではなく、ハーデスによって冥界の女王にさせられてしまったことを知らされた。
神々の王は「ペルセポネが地獄の食べ物を口にしてはならない」という条件付きでペルセポネを返すことをハーデスに命じる。
しかしペルセポネはすでハデスの計略によって冥界の果物である「石榴の実」を4粒口にしてしまっていた。
それで1年のうち、4ヶ月は冥界で暮らさなければならなくなり、その間、デメテルは悲嘆にくれ、作物を実らせなかった。
これが「冬」という季節の由来である。
「石榴」は明らかに、神の領域の植物であると感じた。
その赤い実は冥界のものだから、この世にあって違和感があり、魅力に満ち、退廃的である。
割って食べるのは怖いが、食べるとどんな生き物になれるんだろうと、少し興味がある。
ボッティチェリの「ザクロの聖母」
花言葉は「円熟の美」